Sanshiro’s diary

大した事もない日常だけど…

Yellow Magical Shoes

今週のお題「お気に入りのスニーカー」

自分のお気に入りのスニーカーといえばあの日履いていた、黄色のスニーカーでしょうか。今ではもうなくしてしまってもう持ってはいないのですが、なにか今でもあの靴は自分の記憶の中に残っています。

当時彼女とお付き合いをしていて、彼女とデートで裏原宿を歩いた際に、とある一軒のお店で購入した黄色いスニーカーなのですが、そのお店の名前は忘れてしまいました。そんなに名の知れたお店ではなかったと思います。若干ハイカット気味ですがそんなに高くはなくて、自分のパンツには丁度良かったと思います。

ソールは白でとても爽やかなイメージの靴でした。彼女もその靴を気に入って、自分は彼女とどっかに行く際は確か殆ど履いていたと思います。幸せの色の象徴である黄色は正にあの時の自分にうってつけであの黄色のスニーカーは自分の幸せを象徴するスニーカーでした。自分は其れを大事に履いて殆ど汚くなる事はありませんでした。いつでもその黄色いキャンバスは輝いていた様に見えました。

しかしそのスニーカーも彼女と別れると汚くなる事もないままいつの間にかなくしてしまって、今ではもう履くことは出来ません。恐らくもうあの靴はメーカーのものでもないので売っている事もないし此れからまた発売される事もないと思います。でももしまたそのスニーカーと出会ったとしても、自分はそのスニーカーを果たして買うでしょうか? なにか今ではもうあのスニーカーは履けない様なそんな気がします。

チューリップの曲に' 魔法の黄色い靴 'という歌があります。自分はそのレコードをなんとなく買おうと思いました。君を連れてくるよ と歌ってるその歌は ちっちゃな家まで帰ってくる と歌ってるその歌は あの当時の事をなんとなく彷彿させるそんな歌です。

しかし同じくチューリップの歌で

' あのスニーカーは捨てたかい? ' と歌う曲があります。

そう自分はもうあのスニーカーは捨てたのです。そしてもうあのスニーカーを履くことはないでしょう。

しかしあの黄色いスニーカーは正しく自分にとって魔法の黄色い靴…Yellow Magical Shoes でした

 

            f:id:Sanshiro:20170325061856j:image   

 

絵に描いたような優しいおばあちゃんでした…

お題「おばあちゃんの思い出」

自分のおばあちゃんは見た目も性格もとなりのトトロで出て来るような絵に描いたような優しいおばあちゃんでした。幼い頃は自分は三人兄弟の長男ということでよくおばあちゃんの家に預けられた結果おばあちゃんがお母さんより大好きなおばあちゃん子として育ちました。おばあちゃん家に行くとお昼は出前のそばを大抵とってくれて自分はたぬきうどんがお気に入りでいつも出前のたぬきうどんを食べて、自分は幼い頃はふっくらと太った優しくはありましたが運動が苦手なそんな子でした。よくおばあちゃんは団子を作ってくれて、なにも味がしない団子なのですがそれを砂糖と醤油につけて自分は美味しそうに食べていました。夏になると今時の子ではありえない昔のおべべを着せられて夏祭りに行きました。花火をした時もありました。おばあちゃん家には犬がいて白い犬なのに名前はアカといいました。利口な犬で縄をとくと勝手に散歩にいって食事の前には帰ってきました。でもアカを連れて妹とおばあちゃんと一緒に散歩にいった時もありました。散歩の最中アカは決して自分の前を歩くことはありませんでした。おばあちゃんにはよく出かけた先でトイレに行きたくなってよく困らせました。知り合いの家で自分はトイレを借りた時もありました。ゴキブリがでるからといわれ自分はゴキブリを見た事がなかったので、怖がりながらトイレを済ませたのを覚えています。そんな幼い頃でした。

しかし大学に入るとなんとなくおばあちゃんとは疎遠になりました。自分はおばあちゃんに打ち明けたい悩みがあったのですがそれを打ち明けることが出来ず、おばあちゃんもなんとなく自分がなにかあった事をわかっていたかもしれませんが結局おばあちゃんも自分にどうしたの?と話す事はありませんでした。

自分はその悩みを打ち明けておばあちゃんの懐で泣いておばあちゃんに慰めてもらいたいとずっと心に思ったまま、結局最後の最後まで悩みを打ち明けることが出来ずにおばあちゃんはおじいちゃんと一緒に天国に行ってしまいました。

でもきっとおばあちゃんは天国から自分を見ているはずです。自分はおばあちゃんがいなくなっても大丈夫にならなくてはなりません。でも自分はきっと大丈夫でしょう。自分はもう大人だし、自分の事は自分で解決すべきです。それにもう自分はあの頃の太った鈍臭い運動音痴な自分ではなくなりました。自分は悩みを抱えながら世間の波にもまれ、ちょっとは強くなったような気がします。大抵の事は自分一人で出来るようになりました。優しいだけじゃダメだと言われ、自分も必死に出来る人になろうと頑張りました。

でもひょっとしたらおばあちゃんはあの頃の鈍い運動音痴なでもとびきり優しかった自分の方が好きなのかもしれないとなにかあの頃の自分とおばあちゃんが懐かしく感ぜられます。ひょっとしたらあの頃のままの自分だった方が良かったのかなと今自分の立場にたって思うのです。でもそうではないですよね。自分はもう大人です。きっと此れからも荒波にもまれる事でしょう。それでも大丈夫だよおばあちゃんといえるそんな自分にならなくてはと自分はそう思うのです。

おばあちゃんがいなくなってもうだいぶ経ちました。まだまだ至らないところではありますがきっとおばあちゃんはあの優しい顔でおじいちゃんと一緒に天国でよくやってるよといって見守ってくれてます。自分はおばあちゃんの為にも幸せになりたいです。でもおばあちゃんなかなかそうもいかないんだよなぁ(●´ω`●)

 

 

携帯で簡単に写真が撮れるようになったあの携帯

特別お題「おもいでのケータイ」

自分が思い出に残る携帯と云えば丁度写真が携帯でも撮れるようになったシャープ製のSHのなんたらといった白い携帯電話ではないでしょうか。同時自分にはまだ恋人がいて、その恋人と一緒に下北沢にある携帯電話の激安店でその電話を購入しました。自分は基本電話は好きではなくて、PHSが出始めた頃にすぐに親にPHSを持たされたのですが、いつでもどこでも電話がかかって来るのが嫌でプライベートの時間がなくなるとこんな物出て来なければ良かったのにと最初携帯電話に関しては否定的でした。しかしメールがうてるようになった頃にその彼女に自分はアプローチしましたが、電話は苦手で電話では緊張してしまい上手く彼女を口説けませんでしたが、メールアドレスを聞き出すと、自分は基本文章を書くのは得意だったので、彼女は自分のメールに夢中になり、挙げ句の果てには彼女の方から付き合って欲しいとメールの返信で書いてありました。自分はそのメールの内容を見て信じられなかったのを記憶しています。それで彼女とお付き合いする事になりました。もしあの当時携帯に電子メールというものがなかったら彼女と付き合う事が出来なかったでしょう。

そして写真が撮れるようになると、自分は彼女といった色々な所や、また彼女の写真を撮っては自分で後で見て、または彼女や友達が撮った自分の表情が如何にも彼女に対してデレデレで自分でもその写真を見ては面白おかしく笑っていました。当時カラオケ店だバイトをしていましたがその人達と一緒に行った旅行先やフットサルの試合、その後の飲み屋での写真も撮りました。もうその写真はあの携帯だけにおさまってるものだったので今では見ることが出来ませんが、自分が可愛く思った彼女の写真やデレデレの自分の顔、フットサル大会で優勝したときの集合写真、その後飲み屋で寝てしまった友達などの表情は今でも自分の記憶の中に残っているところであります。

でも出来ればもう一度あの写真達をみてみたいそんな気持ちもしない訳ではありません。結局その白い携帯電話が壊れる頃に彼女との付き合いも終わってしまい自分はその彼女を最後に未だ新しい彼女を作ることが出来てはいません。今ではカラオケ店で共に働いていた仲間もほぼみんな連絡をとることもなくなりました。ただあの頃の思い出は今でも自分の宝物として胸にしまい込んで今を生きています。あとは、やっぱり自分にとって音楽はかけがえのないものだったので携帯で音楽が聴けるようになったiPhoneは自分にとってかなり革命的ではありましたが、それ以前は携帯電話とiPodを持てば良い話だったので、それ程生活が変化した訳ではありませんでした。しかし簡単に写真が撮れるようになったあの携帯電話は自分はカメラなど持っていなかったし、カメラを買おうとも思っていなかったのですが、簡単に写真を撮る事が出来た上にメールで色々な人に送れるようになったのは、自分にとってかなり写真を身近に感じる事が出来た自分に生活の変化をもたらしたそんな携帯電話でした。今でも自分はよく携帯で写真を撮ってはあの当時はまだなかったインスタやフェイスブックに自分の撮った写真を投稿しています。それとやはり当時はなかったLINEで今でも密にまた新たな友達と連絡を取り合っています。携帯電話は自分にとって写真の面白さを教えてくれたそしてメールで簡単に誰とでも連絡が出来るようにしてくれた電話機能より寧ろそっちの方でありがたくそして生活に欠かせなくなったそんな機械です。

sponsored by KDDI

幸せな気分にしてくれる人

お題「小沢健二」

オザケンさん。何故かオザケンさんの音楽を聴こうと思う時わある程度気分が良い時なのですが、オザケンの音楽を聴くと更に気分は良くなり、いつも自分に幸せなひと時をもたらしてくれるそんな人です。あまり詳しくはしりませんがロリポップソニックから始まりフリッパーズギターを経てソロ活動に至ったオザケンさん、叔父がかの有名な小澤征爾ということもあってデビューに至ったのだとおもいますが、別にコネとかいう云々どころか流石叔父がそういう人なんだろうなと思わせる楽曲の数々を自分にもたらしてくれました。小山田さんと共に以前は活動していたオザケンさんですが、自分もなにか小山田さんに似てる様な人とバンドを組んで活動した時もありました。

何故か自分とその小山田さんに似た感じの彼奴との関係は、オザケンと小山田さんの関係と似ている様なそんな気が自分はしてしまうのです。彼奴とは高校で一緒になりました。高校受験の時も見かけて何処か風変わりな出で立ちは自分の記憶に残る、なにかオーラを纏っている様なそんな様に見えました。高校で一緒になった自分は彼奴に音楽の事で思い切って話しかけてみました。それから奴からCDを借りて自分は衝撃を受けました。自分も当時の80年代後期のニューウェーブのバンドをある程度は知ってはいましたが、彼奴から借りたCDは鳥肌が立ちそれから自分は当時作家を夢みてましたが段々と音楽の道に傾倒していきます。結局高校時代に彼奴とバンドを組むことはなかったのですが自分は一浪して大学に進学すると、浪人する事なく大学生活を送っていた彼奴に電話で連絡をして本格的にバンド活動をするに至ります。その当時はアンダーグランドのコアなバンドが流行っていて自分達もそのバンドに影響を受けノイジーなロクにきけもしない音楽をスタジオにいっては作っている様な日々でした。結局彼奴との関係はコアなバンドをしていた為にお互いなんとなく嫌気がさして、自分は最後に手紙を奴に送り、彼奴とは一年でマトモな音楽を作れないまま決裂してしまいましたが、自分は親から止められた所為もあってかそれからも音楽活動を止める事はなく、しかしどっか音楽をしていると、彼奴を忘れ去る事が出来ないのです。自分は最近当時聴いていた音楽をまた聴き始めました。確かに懐かしいのですが何処かまた新鮮に自分の耳には入ってきます。しかし彼奴と決裂してから20年の月日が経ちますが、あの頃はお互いなにも知らず、若かったなぁと思いますしかし彼奴ともう一度バンドを組む事は恐らく出来ないでしょう。でももし彼奴とバンドを再び組めたならなんとなく自分達は売れる様なそんな気がするのです。

不可能だからきっとそう思うんでしょうね。

でもせめて彼奴だけでも小山田さんの様に有名になって欲しいと自分は思います。

オザケンさんはきっとなにか小山田さんを有名にしたかったのではないかと自分はそう思います。そしてオザケンさんは見事小山田さんを世に送り込んで勿論小山田さんの努力もあって小山田さんは世界的にも有名なアーティストとなりました。

自分も努力はしましたが、彼奴を其処までする事が出来なかったのが残念です。

しかし彼奴はきっと今でも音楽活動をしているでしょう。

自分も今まで音楽はしてきましたがここにきて再び作家の道に進もうかと思っているところであります。

しかし今ではもう音楽のない生活は自分にとってあり得なくなってしまいました。毎日レコードを手に取っては色々な音楽に針を落とすそんな日々です。

自分はある日彼奴が音楽雑誌なりで見かける夢をみています。そして彼奴がデビューしたレコードなりCDを将来レコード店で買うでしょう。

まぁしかしそのレコードなりCDは自分にどんな感情を与えてくれるかは全く未知ですがね。きっと全く良くないかそれとも途轍もなく素晴らしいかそのどちらかでしょうか…⁇

それに多分自分はオザケンさんの様な幸せな気分にしてくれる音楽なんて作れないでしょうから自分の思っている事など、所詮自分の夢物語でしょう。

ただあの二人オザケンさんと小山田さんは今でも自分に夢を与えてくれるそんな人です。

オザケンさんも小山田さんも此れからもご活躍を楽しみにしています。

小山田さんもメタファイブなんて組んでいないでいっそ自分達の変わりにフリッパーズ再結成をお願いします。なーんてやっぱりそれは不可能なんだろうなぁ笑

 

いつの間にか上手く歌えるようになってました

今週のお題「カラオケの十八番」

カラオケも久しくいってませんが、自分は基本音程をとるのが下手なので単調な曲しか歌えませんでした。ただアパレル業でいつも声を出して売り込みをしていた所為なのかなんなのか声は出るようになったので、ブルーハーツとかは基本単調な音程だったので比較的上手く歌えていたでしょうか、しかしこの前久々に友達とカラオケにいきましたが、カラオケの機械も相性が良かった訳なのかなんなのかどの曲も自分でもビックリするくらい上手く歌えて友達からも絶賛されました。友達は彼女を連れていたのに自分だけが目立ってしまい、なんかその友達に悪かったかなぁとちょっとバツが悪いような気がしました。まぁでも自分は気分は良かったです。正直まさか歌で褒められるとは思わなかったので、今迄歌には全く自信がなかったのですが、特に練習した訳でもなく、勿論何処かスクールに通った訳でもないのに自分でもまたどうしてなんだろうがと驚き思うところです。余程カラオケの機種が相性が良かったんだろうなぁと、でもそれにしてはよく歌えたなぁ…自分がして来た事といえば、音楽は好きだったのでひたすら毎日ロクにテレビなどはみずにひたすら音楽を聴いてきただけなのに、しかも洋楽が主ばかり…まぁ邦楽も聴くにはききますがたまにですかね。音楽を聴いていれば自然と歌ってもいないのに歌が上手くなるなんてでもきいたこともないですよね。兎に角苦手な曲も勿論ありますが、歌が比較的上手く歌えるのは自分にとってはかなりいい気分です。音楽が趣味なので、自分でも曲を書いて歌ってみようかとも思いはじめました。でも最近はまたロクに大声をだしていないので元の音程をとるのが下手くそな高音も出ない自分に戻っているかもしれません。でも大体その人のカラオケの十八番を聴けば自然とどの世代の人か1発でわかってしまいますよね。それに自分と違う世代の人の曲は普通に興味深いところであります。ちょっと最近疑問に思っていることですが、たまに年配のもう定年も近いサラリーマンの方がたまにイアフォンをつけているのが電車の中とかで普通にみられますが、あの世代の方は普通に今どんなアーティストのどんな曲を聴いているんだろうと、なにか知りたくてきいてみたい気もしますが、まさか見ず知らずの年配の方にいきなり何をきいてるんですか?とも尋ねる訳にはいかず、その疑問は未だ解決していないところです。基本自分の親父は音楽はきかないので参考になりません。まだ若い人の情報は入ってくるのですが、その世代の方はとりあげられる事もなく、でもまさかきゃりーぱみゅぱみゅみたいなアイドル聴いてる訳ではなさそうだし、どうなんだろうと、ただ知ったところで自分が聴いてみるかといえば別にそうではないんですがね。

因みに自分と同じ世代の人の男の18番を一般的にみてみると、BOOWY米米クラブブルーハーツ、まだまだありますがとくに氷室京介布袋寅泰は自分の世代特有の男の18番であることは間違いないでしょう。まぁそれが嫌いな人は普通にオザケンではないでしょうか

大学進学〜1人暮らしによる家族との生活からの卒業〜

今週のお題「卒業」

学校卒業なんて今から何十年も前の話になりますが、普通にあの頃からそんなにも月日が経ったのかと思うところであります。自分は高校卒業後、浪人を一年間したのち東京にある国公立の大学が決まり、親からは国公立大に受かれば1人暮らしをしても構わないと言われていたので、無事自分としては念願だった家族からの生活から卒業し、東京の調布市に小さな4.5畳の木造アパートを借りて1人暮らしを始めました。しかし親からすれば自分を引き離しはしたくなかったらしく、引越しの手伝いを済ますとえらくガッカリしながらそのアパートを後にしましたがそれに引き換え一方自分は此れからの生活が楽しみで堪らなく意気揚々としていて、笑顔で両親を見送りました。

偶然にも中学の同級生がそのアパートから歩いて5分くらいの所に同じくアパートを借りたのもあいなって、自分の大学生活のスタートは今から思えば1番人生で楽しい時を送ったのではないかと思います。国公立の大学でしたが、普通に私立の大学生と変わらず、ほぼ学校へは行かず、遊びにあけくれているかもしくはバイトに精を尽くすそんな生活を送っていました。仲の良い中学の同級生は殆どほぼ同時期に中央線もしくは京王線沿いに1人暮らしを始め、頻繁に会っては共通の趣味であった音楽を通して、DJセットを手に入れ曲を繋いで遊んだり、アーティストの話題を話したり、レコードを買いに吉祥寺に足を伸ばしたり、テクノクラブやコアなアーティストのライブ、もしくはみんなで部屋で全裸になって写真を撮ったり、くだらない話題で盛り上がっては、今までの大学生となんら変わりのないヒッピーに憧れて丁度当時のリバイバルの流行からベルボトムのジーンズをはきながらそんな様に堕落した生活を送りました。そのせいでぼぼ大学の単位は落とし、結局成績が悪いこともあって、親から実家に帰ってこいとほぼ強制的に自分ひとりだけみんなから引き離され1人暮らしは一年間の間で終わってしまい実家に戻され、実家から2時間かけて大学に通う羽目になったのですが、通学だけで疲れてしまいそれからも学校へはロクにいけず大学は1年生を4年間してその後に中退をする事になりました。

しかし自分としては大学を出て将来の事を考えるのではなく、寧ろ自分は音楽なり芸術面で成功する将来を考えていたので、大学を中退する事になんら躊躇うことはなかったのですが、まぁ今迄の受験勉強はなんだったのだろうとふと過去の勉強してきた自分を哀れに思う事はありました。

あれから自分は20年の月日を実に過ごしました。普通にみんなと同じ様に世間の荒波にも揉まれ、あの頃から比べれば幾分成長できた筈ですが、未だにあの未来を夢見ながらしかし社会に反して生活した1人暮らしの大学生活は今でも微笑ましい思い出として自分の心に残っているところであります。出来ればもう一度あの頃に戻りたい、別に今迄歩んできた人生をやり直したい気持ちではありませんが、あの頃の心が浪漫に満ちていたあの気持ちにもう一度戻ったみたいとも思いますが、あの純粋な気持ちに戻れることは今後生きても恐らくもうないでしょうと自分は思うのです。

TVゲーム世代の先駆け世代として

今週のお題「何して遊んだ?」

自分が子供の頃は丁度ファミリーコンピュータ通称所謂「ファミコン」が自分が小学校1年生の頃に発売され、みんな夢中になりました。今の様に携帯でもゲームが出来る時代ではなく、みんなファミコンをテレビに接続してカセットに差し込み立ち上げてから始めてゲームが出来るそんな世代でした。ファミコンはコントローラーが2つしかなくみんなファミコンがある家には大勢集まりましたが、2人用のゲームで始めて2人しか出来ずみんな順番を今か今かと待っていました。ファミコンを持っている人はそれこそ持っているだけで人気者でした。しかし親からはファミコンばかりしないで外へ出ても遊びなさいと2時間ばかりしていると言われてみんな嫌々外に出され、まぁドロケイとかポコペンなどをしていましたかね。ドロケイとは泥棒と警察に別れ警察は泥棒を捕まえて捕まった泥棒は地面に書かれた枠の中に収容されるのですが、まだ捕まっていない泥棒が警察が守っているの枠の中に捕まった泥棒を警察をかいくぐって手をタッチして助けるそんなまぁいわば缶蹴りを応用した様な遊びでした。ポコペンもほぼそれと同じで、ポコペンはほぼ缶蹴りと一緒。缶が枠になり見つかると「何々ちゃん見つけたポーコペン」といってわくを踏む、見つかった人はやはり枠の中に入れられ、見つかった人も鬼がポーコペンと言われて枠を踏む前にみんなをタッチして助けたら助けられた人わ枠から解放されてまた隠れる事が出来るそんな遊びでした。後は野球なのですが野球をやる程人数が集まらないので、ピッチャーとバッターはいるのですが、2、3人で守り、カラーボールにプラスチックバット、後は守る人もみんな素手で、守っている人が打者が打った打球をこぼす事なく一発でキャッチ出来たら打者は交代するというなんと呼んでいたかは忘れてしまいましたがそんな新ルールの野球遊びをしていました。でもやはり自分達の世代の遊びといえばファミコンで、スーパーマリオドラクエファイナルファンタジー、など今でも子供がしているゲームを先駆けて夢中になった世代です。ドラクエ4を買うのに子供達だけで徹夜で電気店の前にならんで夜を過ごして、並んでいた人も買うことが出来る整理券を手にする事が出来ず、丁度整理券がなくなるのが自分達がギリギリで、良かったーとホッと胸をなでおろしたそんな経験もしました。今ではかなり多くの面白いゲームがでているんでしょうけど、自分としてはむしろやりたいのはあの頃の懐かしいファミコンのゲームソフトです。あの頃のファミコンがあればあとは何もいらないと思っていた少年時代の思いはきっと今のゲーム世代の子供となんら変わる事はないんじゃないかと、いわば自分達はそれこそゲーム世代の先駆けの人でした。